明治の文豪永井荷風が愛し、明治、大正、昭和天皇、皇后そして皇族へ献上・お買上された品
自分へのご褒美、親しい友人へのプレゼントに最適。
良き縁結びを祈念し、結びの形にしました。
柚子を丸ごと使い、一つ一つ中身を詰め、蒸籠で蒸し上げた高級和菓子
大胆にそのまま、丸かじりできます。
白味噌、生姜、柚子、砂糖で練り上げた甘味のある珍味
伝統のゆべしに、柚子ピール、柚子酢、洋酒を贅沢に加えソフトな食感と甘酸っぱい味覚を表現しました。
甘酸っぱい味と香りの一品
備中小豆のなかで最も高級な夢大納言小豆を使って作った粒餡には、芳醇な柚子香りが漂い、あっさりした風味に仕上がっています。更に、粒餡の間に当店のゆべしを加え、しっかりした食感を楽しむ事ができます。



天任堂ゆべしの由来

代々当家の言い伝えによると、当家のゆべしは、天任堂の先祖が当地松山藩主板倉家6代目勝職公
(1770~1830年)に、土地の柚子を使って作った餅菓子を献上したのが始まりです。


備中国松山藩のゆべしと天任堂の歩み

この地は、鎌倉時代より城下町として発展しますが、同時に戦乱の歴史でも
ありました。
1600年頃には、漸く落着き、小堀遠州がこの地に奉行として着任しました。
その後、小堀遠州によって城下町も整備され、寺社仏閣、枯れ山水の庭園の創設。
さらに、茶の湯などの文化が伝承されることになります。



しかし、その後も徳川幕府の政策で、領主の交代が続きます。

18世紀後半以降、板倉家の時代になると、7代目藩主勝静公の時、困窮した藩の財政再建の為、当時、陽明学者でもあり、勘定方責任者山田方谷は、城下の家々に柚子の木を植える様奨励し、土地の柚子を使って茶の湯の伝統適った上品な味のゆべしを大量に作り、山間の地より、江戸、大阪に販売したのです。


その結果、高梁藩は、財政再建の功により、その手腕を認められ幕末徳川幕府の幕閣の要職(老中)につきました。しかし、それが災いし、時代が変ると城は取り潰しになり、町は一時寂れたのです。

この状況を見て、天任堂の先祖は、大変悔しがり、奮起して、松山城をロゴマークとして、全国に大八車を引いて売りに歩いたと伝えられています。 東北地方から関東、名古屋、大阪。

そして、明治以降も、ゆべしの味については、工夫と研鑽を重ね色色なコンテストで成果を残しました。